PLAYER INTERVIEW
都会にあこがれて15歳で上京
1951(昭和26)年、葛尾村上野川で生まれました。両親は開拓民として葛尾に来たと聞いています。家は竜子山のふもとにあり、麦や豆、蕎麦、小豆などを作っていました。当時はもちろん農業機械などありません。周りには馬や牛を使っていた農家もありましたが、うちはそれらもなく、かなりの面積をすべて手作業でやっていたんです。私も幼い頃から手伝いをしました。
うちは田んぼが少なかったので、コメを入手するため小豆などと物々交換もしていたようですが、当時はコメのほうが貴重品でしたから、交換してもいくらにもならなかったのを覚えています。また、飼っていた鶏の卵やウサギの毛皮は、現金収入を得る数少ない手段でした。だから卵はあっても自分たちでは食べられず、ウサギも年に一度、正月に食べるくらい。さらに母は、農作業だけでなく道路の仕事もやっていました。昔の道路は未舗装で、雨が降ると大変だったのです。石を機械で粉砕し、その砂利をトラックに積んで、ぬかるみに撒くといった重労働をずっと続けていました。
そういう環境で育った私は、やはり都会への憧れがあったんですね。中学を卒業後、15歳で上京しました。横浜の木造大工へ弟子入りし、20代の前半まで住み込み修業。途中で親方がコンクリートの型枠づくりに転向したので自分も型枠職人となり、以来40年以上その仕事を続けました。引退後の現在も横浜に住んでいます。
離れていても村を思う気持ちは変わらず
故郷を離れて半世紀以上になりますが、村とのつながりは消えていません。上野川の土地は、今でも帰るたびに手入れはしています。30代半ばで横浜に現在の家を建てたときも、葛尾の自分の山から木を伐り、製材してもらった木材を使ったんですよ。
また、4年前からは葛尾村在京友の会の会長を務めています。友の会は首都圏に住む葛尾村出身者の集まりで、1999(平成11)年に発足しました。主な活動は、交流会を兼ねた年1回の総会開催、年数回の会報発行のほか、葛尾感謝祭など村の行事に参加することです。残念ながらコロナ禍のため、昨年(2020年)は総会も感謝祭も中止になってしまいましたが。
ただ、会員の高齢化と、それに伴う会員数の減少が進み、活動自体がだんだん厳しくなってきているのが現状です。現会員は発足時の約半分の84人(2021年8月3日現在)。そのうち、常に積極的に活動に参加してくれるのは20人ほどでしょうか。かつては感謝祭に参加するのにバス3台を連ねて行った時代もあったようですが、現在では1台でもなかなか満席になりません。
それでも、みんな葛尾のことを思う気持ちに変わりはなく、村へ帰れば途端に子供に返るのですよ。感謝祭は秋ですから、小出谷(こでや)の渓流沿いの道を通ると紅葉の盛りで、バスの車内から「やっぱりすごいなぁ」と歓声があがったものです。
秋の紅葉だけでなく、春の山ツツジも見事でしたね。昔、天王山(日山)の山開きでツツジに囲まれて宴会するのも楽しかったですが、竜子山のふもとの我が家でも、村の人たちを呼んで山ツツジの花見をしたものです。ツツジの花は食べられるんですよ。蜜がとても甘いんです。
その家はもう解体してしまいましたが、親が拓いたこの土地は荒らしてしまいたくありません。草を刈っておかないと蕨など山菜も生えてきませんしね。できる限り手入れして、花でも植えられたらいいと思っています。
(2021年7月取材)