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葛尾村復興支援員
猪狩 聡恵さん

■フォローできるようになりたい

葛尾村の落合集落の出身です。家族は父母祖父兄二人で、私は末っ子です。現在、父は蕎麦屋を営んでいます。母は学校の事務職員でした。

葛尾村での子供のころの思い出はあまりありません(笑)。葛尾村の印象があまりありませんでした。何もないという印象が強いですね。子供のころは安定した職に就きたいと考えていましたが、ゲームやアニメーションなどのキャラクターデザイナーに憧れ、絵を描くことも好きだったので、葛尾中学校を卒業して双葉高校に進み、宮城県仙台市の美術の専門学校のキャラクターデザイナー科に進学しました。人体の描き方や、色の置き方など様々なことを学びました。卒業して東京のゲーム会社に震災後の2012年に入社しました。2Dデザイナーで入社し、3Dデザイナーとして背景や風景のグラフィックをPCで書いたり、アニメーションの映像編集もやったりとマルチに仕事内容をこなしていました。

しかし、その会社の歓迎会で隣にいた大学生のグループが「福島の人は東京に出るな」と言っているのを聞きました。当時から福島への風評がありました。また、病院では診察に来た私が福島の出身ということがわかると隣の妊婦に嫌がられたこともありました。自分も福島の家族への不安があったけれど我慢していたのに、簡単にそんなことを言われるのが辛かったですね。それでいろいろ考えたくて福島に戻ろうと思いました。しばらくは何をやりたいことかわかりませんでした。とりあえず、何も考えず郡山市で接客の仕事をしていました。

そのとき接客がとても楽しいということに気が付きました。同時にイラストを描く中でもキャラクターにはファッションがあったことに気がつき、ファッションデザインにも興味がわいてきて、接客とファッションデザインにかかわれるアパレルで働き始めました。そんな時、今度は祖母が亡くなりました。

初めてのお葬式が祖母でした。その時、火葬されたお骨が職員の方に物のように扱われていたことに驚きを覚えました。そのことが気になっていたところ、ちょうど火葬場の求人の募集がでているのを見つけ葬祭場に勤めました。自分が嫌だったことに対して、そこをフォローできるようになりたいという思いがあったのが理由かと思います。

火葬場で3年務めた時にやりきったと感じました。また、火葬場勤めでは結婚もしづらいことも分かりました(笑)。次の仕事を考えたときに地元に「興味」が湧きました。

■住民のニーズをもとに住民が喜ぶ仕事をしたい

復興支援員では、役場からの相談に対して企画をつくるという仕事をしています。村内の未稼働施設の使い方(せせらぎ荘の厨房など)、住民のニーズをもとに住民が喜ぶ仕事をしたいです。他にはツールドかつらおの運営や、施設の管理運営などをしています。これまでの仕事は個人を相手に対応していましたが、復興支援員では多数を相手にしているので答えが見えないことに苦戦しています。

■住民のニーズに寄り添っていきたい

アイデアというよりは、あくまで住民のニーズに寄り添っていきたいと思います。住民の方の声に答えられるように頑張っていきたいと思います!

(2019年1月取材)


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