INTERVIEW

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元双葉高校校長、現双葉高校同窓会長
松本 貞男さん
双葉高校創立百周年記念事業実行委員長

東日本大震災以降にFacebookにアクセスするようになり、一般社団法人葛力創造舎を知りました。村の文化をつないでいくことが村の持続に繋がる。葛尾村が村として生き続けること、それは文化が引き継がれていくことに繋がる。そういう新しい地域の持続モデルを目指したプロジェクトを立ち上げて、葛尾村の地域づくりのためにUターンして人材育成と事業開発を行っている下枝浩德さんと、ネットを通して繋がりました。

 私は生粋の葛尾村育ちで葛尾小中を卒業後、双葉高校に進学し、福島大学卒業後は西会津・南会津・保原高に勤務し、昭和54年4月に両親が住む故郷の葛尾村落合菅ノ又に帰りました。父の死後に隣の浪江町に自宅を新築し引っ越しました。その後、相馬海浜青年の家・福島中央・富岡高、そしていわき海浜自然の家、その後川俣・双葉高に勤務し、平成20年3月に定年退職しました。

故郷葛尾村に農地がありましたので、ここで蕎麦の栽培を始めました。はじめはマメトラや中古のトラクターを購入し畑で野菜なども栽培しようと単純に考えていました。地元には同級生が会長をしていた「葛尾石臼蕎麦の会」があり、栽培だけでなく蕎麦打ちの指導も受け、落合銀座の南の山の向かい側に実家と畑があったのでゆくゆく蕎麦屋を開業したらどうかなどとおだてられ、ほんのすこしその気にもなりました。最初は友人達を呼び集め、蕎麦の会の方から手ほどきを受け、「蕎麦打ち食べる会」を催し、好評であり、3年やりました。栽培3年目で少しずつ収穫も増えて、さて4年目に入る年にあの3.11の大惨事が発生しました。

あの夜は、浪江の自宅は電気・水道・ガスなどライフラインは影響がなく、夜中まで地震により破砕した本棚・家具や食器などの片付けをしていました。時折テレビで石巻や気仙沼の津波大被害を視聴しながら宮城・岩手の方は大被害で大混乱だと思っていましたが、まさか浪江の請戸や福島県沿岸にも津波がくるとは想定外でした。深夜になり、明日にまた片付けをしようと就寝しました。3月12日朝6時に「原発の心配があるので西の方向へ避難せよ」と町の緊急防災放送がありました。(西の内陸部へ向かう国道)114号線は渋滞し、逆方向は自衛隊の災害派遣のトラックが何十台も沿岸部へ向かっていました。

そこで私たちは、取りあえず家族で実家のある葛尾へ向かいました。県道50号浪江三春線を行こうとしたら大柿から通行止めだったので、仕方なく渋滞のまま津島へ向かい、国道399号を南へ向かって葛尾村に着きました。年老いた母がおりましたので、母の兄が住む登舘の従兄宅に母を頼み、菅ノ又の自宅に行き、妻と働きました。この時点でも原発安全神話を信じて疑わなかった私は、夕方は浪江の自宅に帰ろうと思っていました。そして夕方になり、叔父宅に行ったら、夕食の準備がしてあり、今夜は泊まっていきなさいと言われ、お言葉に甘えることにしました。

そのうち、村議であった従兄が戻ってきて、オフサイトセンターからも逃げてきて原発が危ないからここにもいられないということになり、叔父の家族全員と双葉町から避難してきた従兄と一緒に郡山方面への逃避行となりました。叔父達は途中の三春町で、すでにギュウギュウだった若松屋旅館に無理に頼んで泊まることになりました。私の家族は、郡山で一人暮らししていた義母宅へお世話になることにしました。3日目に母が慣れない妻の実家で気疲れを起こし始めた折、郡山から磐越道のバスが走るようになり、そのルートで新潟まで行き、上越新幹線で東京の妹宅へ母を預けに行きました。それ以降、夫婦で半年間義母宅での生活となりましたが、東京での生活には耐えられないという母のために、郡山駅から5キロほどの三春町に平成24年に中古住宅を購入し、ここに5年ほど住んだ後、平成28年郡山市に新築した現在の家に落ち着きました。

蕎麦屋開業の夢はもろくも消えて生きる目的もはっきりしないまま、時が過ぎてしまいました。この間、叔父や伯母、従兄や友人が次々とこの世を去ってしまい、母も介護付き老人ホームに入居しました。1週間に1度は面会に訪れていましたが、一昨年からのコロナウィルス感染拡大のために面会もままならない状況にあります。購入した一眼レフで傑作の写真撮影も考えていましたがコロナ禍のため諦めました。他に特技もなく、コロナ感染の心配は増幅するばかりです。私は双葉高校同窓会活動に関わっており、2025年秋に予定されている創立百周年記念事業の準備などで頭が痛い現状です。同窓会の役員会・総会・百周年実行委員会も今年はコロナ禍のために開催ができずに焦っています。

あの十年前の東日本大震災に伴う東電原発事故により双葉郡は壊滅状態。住民は自宅を追われ原発難民となって全国に散らばってしまい、今尚どこにいるのかわからないままの人々が多数います。十年過ぎても復興は殆ど進まず人口も減少したままです。さらに、帰還困難地域も今も解消されず、故郷以外の場所に落ち着く方、自宅に帰れないまま亡くなってしまった方もかなりの数になっています。双高も大幅な生徒数減少により平成29年度から休校措置となりました。同年11月には休校記念式典が挙行され「復活・双高 想いをつなぐ双葉の伝統 心のふるさと我が母校」というスローガンのもと、母校の存続と再開に向けて力強く前進することを誓い合いました。現在、多くの同窓生や有志各位の絶大なるご理解とご協力をいただき、記念事業の完遂を期し、また今後の同窓会活動資金と母校復活の基金のためにと募金活動をしています。この活動も宛先不明やご逝去の方も数多く、特に若い人達の宛先の判明率が低く苦慮しています。

最近、双葉郡内では廃校になってしまった学校があります。一昨年、吉田栄光県議と県教育長に双高および双葉郡内の県立学校の廃校などのないようにと懇願をしてきました。私も復興に何十年かかろうとも生存するうちは頑張りたいと思っています。

また、福島県以外の方が東日本大震災の教訓を忘れ去ることのないよう、しっかりとその事実を継承していかねばならないと思います。このような中、双葉郡内の8町村では人数こそ少ないもの、故郷に帰還し頑張っている方々がいらっしゃることには大変心強いです。なかでも、若者達がいろいろな手法で地域づくりに取り組んでいることに頭が下がる思いです。自然豊かで美しい景色が広がり、今でも地域の人々の強いつながりが残っている葛尾村。時々自宅に行き、草刈りなどをしています。もう少し若かったならお役に立てることもあろうとは思いますが、今は心から故郷葛尾村と双葉郡の復興を祈るばかりです。

(2021年7月)


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