PLAYER INTERVIEW
私は1999年、東京都から、妻と当時2歳だった息子と3人で、自然豊かな環境での暮らしを求めて福島県葛尾村に移住して来ました。たくさんあった移住先候補の中から最終的に葛尾村を選んだのは、ここが椎茸の栽培に適していたことと、家の前を流れる高瀬川渓谷に一目惚れしたからです。
キノコ栽培のノウハウは事前によく勉強していたので、つくった椎茸は移住翌年から出荷できました。まもなく舞茸の栽培も開始。椎茸は菌床の上面からのみ椎茸を収穫する上面栽培、舞茸は原木栽培です。震災前は椎茸5棟、舞茸1棟のハウスで年間3~4トンほどを生産し、6割をJAに出荷、4割はネットなどで直販して好評をいただいていました。
2011年の原発事故は移住12年目のことです。全村避難で当然、椎茸の栽培もできなくなり、専業農家の私たち家族にとっては大打撃でした。避難中は、知り合いを頼って森林組合や避難先の近くの工場で働いて生計を立てつつ、葛尾での営農再開の機会を待ち続けたのです。帰村をあきらめて別天地で椎茸栽培を始める選択肢も考えました。でも、震災の1年4か月前に制度資金借入にて設備機材等を入れ替えしたばかりでしたから、中途半端で終わらせたくなかった。最後までやり遂げたいという思いがあったのです。
そうしてやっと避難解除になった2016年、夫婦で葛尾村に戻り、椎茸栽培を再スタートしました。2年前から息子も稼業に加わり、家族で頑張っています。ダメになったハウスも自費で再建し、現在は4棟。生産量も6トンまで増えました。
自分が率先して村に戻って事業再開した理由は、もうひとつ、他の避難者たちが戻ってくるきっかけになれるかなと思ったからです。産業が少ない葛尾村にとっては雇用の創出にもつながるでしょうし。それに、いま何かしないとキノコの産地であった葛尾村自体が消滅してしまうんじゃないかという危機感もありました。
もちろん課題はあります。生産量は増えましたが、需要の変化から椎茸の単価が以前よりも下落しているのです。今後どうなるかわかりません。が、それでも自分は一生椎茸の生産に携わっていくと思います。
思えばこれまでもいろいろな苦労がありました。小規模な専業農家には休みもなく、家族を遠くへ遊びに連れていくことなどできません。それでも家族が協力して続けてこられたのは、ひとえに葛尾村の自然があったからです。家の裏にハウスの廃材を加工してジェットコースターをつくったり、手作りのいかだで川下りしたりと、「ここでしかできないこと」を楽しみながら生活してきました。こうした自然を満喫できる暮らしを土台にして、これまでと同じように試行錯誤をしながら、椎茸を使った6次化商品開発など、チャレンジを続けてしていきたいと考えています。
(2020年4月 取材)