INTERVIEW

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農業生産法人 有限会社篠木牧場 取締役(福島市)
篠木要吉さん

「昭和時代の葛尾村では、まだ農耕馬がたくさん飼われていました。トラクターなどの機械が入る前は、馬を農作業に使い、フンを堆肥にしていた農家も多かったものです。そして、仔馬が生まれたら将来の競走馬として中央競馬や地方競馬に買い上げてもらっていたのでした。

その頃に飼われていたのはアングロ・アラブという馬種が大半でしたが、それはこの馬の気性が穏やかだから。純血でデリケートなサラブレッドと比べて丈夫さもあり、農家が本業の片手間でも飼育しやすい馬だったのです。いまは競馬といえばサラブレッドですが、昭和の終わり頃まではアングロ・アラブのレースも多数行われており、当時は全国でかなりの頭数が生産されていました。

昭和5(1930)年頃に葛尾村で創業し、私が4代目となる篠木牧場も、当初は農家の副業として馬を生産していたようです。私が高校を卒業した頃、いっとき繁殖牝馬をすべて手放し、他の馬主の馬を預かって馴致(じゅんち=人を乗せられるようにすること)する預託のみを行っていた時期もありました。が、やがて自らサラブレッドの繁殖を再開。農業を完全にやめて馬の生産を専業化したのは昭和54(1979)年のことです。ピーク時には繁殖牝馬8頭を擁していました。

農業の機械化が進み、また競馬の世界でアングロ・アラブのレースが次々に廃止されていくにつれて、葛尾村の馬生産者も減少していきましたが、その中で篠木牧場が生き残ってこられたのは、サラブレッドに特化していたことに加え、預託専業だった時代に培った販路ネットワークの存在が大きいと思います。昭和61(1986)年には、私たちが生産した牡馬「ウオローボーイ」がG1レースの皐月賞に出走したこともありました。」


平成23(2011)年の東日本大震災当時、競走馬育成牧場として葛尾村最後の1軒となっていた篠木牧場には、出産を控えた牝馬2頭を含めて7頭のサラブレッドがいました。原発事故による全村避難、放射性物質による牧草の汚染。篠木さんは、その後まもなく誕生した仔馬2頭もあわせて全ての馬を手放すという、苦渋の決断をせざるを得ませんでした。それでも篠木さんは諦めることなく、翌年には福島市松川地区に土地を入手し、和牛繁殖農家として再スタートを切ります。現在は長男の祐一郎さんが後を継ぎ、3棟の牛舎で90頭を育成中。要吉さんも自ら「牛は触らない」ものの、経営の後方支援を続けておられます。


「福島市に土地を購入したとき、もう一度馬を飼おうかと考えないでもなかったんですよ。でも、ここの土壌は柔らかい赤土で、そのままでは馬の育成に適さず断念しました。ちなみに葛尾村の土は花崗岩で非常に固い。そういう場所で育てると馬の蹄がとても丈夫になるんです。また、馬は暑さに弱いので、標高が高く夏も涼しい葛尾は気候的にも馬の生産には適していたと言えます。

もっとも、葛尾で畜産が盛んになったのは、寒冷地のため他の作物の栽培が厳しかったという理由もあるでしょう。いまは温暖化でだいぶ雪は減りましたが、昔は1メートルの積雪など珍しくなかったし、夏の冷害にも悩まされました。水田6反部で3俵しかとれなかった年もあったのですよ。

実際、馬の生産は福島県を含め広く東北全域で行われていたもので、中でも青森などは先進地として知られていました。元をたどれば、明治期の日清・日露戦争で大陸に渡り、相手の馬と日本の在来種の馬の体格の違いを目の当たりにした日本政府が、洋種血統を導入した軍馬の生産を全国で奨励したのが始まりだったのです。

生き物を相手にするのは大変な仕事です。葛尾に再び馬を、ということで葛力創造舎が馬を飼いたいという話を聞いていますが、かなりの覚悟が必要になりますよ。できることは協力したいと思いますが、まずは「馬を育てられる人」を育てるところから始めないといけませんね。」

(2021年3月 取材 M/N)


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